今月のイメージ 


 クレーターと呼ばれる月面のくぼみが何を成因とするかについて、多くの研究者が共通の理解を持つに至ってから数十年を経たにすぎない。それを決定的にしたのはいうまでもなく惑星の直接探査である。1950年代の終わりに幕を明けた宇宙開発の時代は、観測や通信技術の進歩と相まって我々の太陽系に対する理解を一変させてしまった。月に、火星に向けて打ち上げられた探査機は、大小無数のクレーターに覆われた表面の写真を次々に送ってきた。クレーターは月や火星の表面だけでなく、水星も、そして火星の衛星や小惑星といった極めて小さな天体の表面も、すべて隙間無く覆っていた。

 その大半が天体の衝突で生成されたものであるとしたとき、太陽系の誕生から今日の姿への変遷において、天体の衝突が果たした役割というものを、無視することはできなくなったのである。というより無数の天体の激しい衝突をの中から、現在の惑星系が構築されていったことに誰も疑問を抱かなくなっている。

 1928年の生まれ、僅か19才で学士号を、20才で修士号をカリフォルニア工科大学から取得したという秀才ジーン・シューメーカーは、この宇宙時代の幕開けを30才のときに迎えるという幸運に恵まれた。言うまでもなくその後の精力的な研究によって、地球を対象として築き上げてきた地質学の手法を、月や火星などに適用してその構造、組成、生い立ちを解明していく惑星科学、あるいは惑星地質学と呼ばれる学問分野を構築した先駆者の一人となったのである。Ranger計画やApollo計画では科学探査面の指導的役割をはたすとともに、自ら宇宙飛行士となって、月面の探査に出かけることにチャレンジしたこともあるという。実現はしなかったが、精気に溢れた研究者の一面を髣髴とさせる。

 アリゾナ州の小さな町フラグスタッフ。USGSフラグスタッフはその郊外にある。かわいらしい建物が幾つか集まって、田舎の小さな小学校のように見える。しかしその建物に一歩、足を踏み入れると狭い廊下の両側にびっしりを張られた惑星探査機からの写真や、それをもとにした研究紹介のポスターにびっくりする。、なるほど米国における惑星探査の一つのメッカなのだということが、すぐに頷ける。大学を卒業してすぐに米国地質調査所(USGS)に入ったジーンシューメーカーは、45年にわたってここに所属した。そして惑星地質学とともに、60年代からフラグスタッフのこの研究環境を作ってきたわけである。この町から東へ車で約1時間、見渡す限り何もない砂漠の中に、有名なアリゾナ隕石孔、バリンジャー・クレーターがある(写真)。この起源や生成に関する彼の研究は、その後の月、惑星のクレーターに関する本格的研究の礎となったのである。

 生成期の激しい衝突の時代は終わっているとしても、太陽系の長い歴史の中で、地球に天体が衝突するという現象は決して珍しいものではない。しかしその長いタイムスケールに比べ、人類が地上に登場して今日に至る時間はあまりにも短い。人類という種の寿命を考えたとき、その間に我々に大きな影響を与える天体衝突が起きる確率は極めて低い。しかし、決して起こらないという理由もない。

 地球に接近する小惑星、あるいは小天体はどのくらい存在するのか、またどのような軌道を飛行しているのか。その真相を十分に把握したとき、はじめて議論が次の段階に進むわけである。

 この地球に接近する小惑星の探索という面でも、シューメーカーはリーダーシップを取ってきた。ヘリンと組んだシュミット望遠鏡での探索は、このような特異な軌道を持つ小惑星が、非常に多数存在することを多くの人に実感させてくれたのである。このように豊富な研究経験を踏まえ、小惑星の地球衝突についての啓蒙活動にも積極的に努力され、国際スペースガード財団の発足に当たっては多大の労をとられたのである。

 しかし何と言っても彼の名前を世界に知らしめることになったのは、1993年のシューメーカー・レビー第9彗星の発見である。翌年の7月、20個を越える数に分裂したこの彗星が、次々と木星に衝突して起こした大爆発は、太陽系の生きた姿を世界中の人々に印象づけた。このような天体ショウを見ることができた我々は、実に幸運であった。しかしこのような彗星の発見者になれたという彼のの幸運に及ぶべくもない。才能とともに幾多の幸運に恵まれた研究生活、しかし彼の生命を奪ったのが自動車の衝突事故であったというのはどういうことであろうか。     

(写真はアリゾナ、バリンジャー・クレーター、 写真とエッセイ:由紀 聡平)


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