衝突と気候変動、及び絶滅と文明盛衰

     −(その3) 文明と気候変動−

                     古宇田亮一(地質調査所)


6. 3500年前の世界

 鈴木・山本(1978)によると、ミノア文明が崩壊した原因は、直接的には火山爆発をきっかけとしても、それ以前に既に衰退の兆しが現われているという。ミノア文明に代わるミケーネ文明の担い手が移動したことも合わせて説明が必要になる。これは、白亜紀末の恐竜絶滅が、繁栄の絶頂期に起きたというより、既に衰退期に入っていて、海では哺乳類に交代しつつある時期と、小惑星衝突とが重なる時期に起きたことに似ていると言えなくもない。

 では、ミケーネ人はなぜ南下してきたのか?より広く見渡すと、世界各地で、「3500年前」の近傍で多くの文明が、或いは滅亡し、或いは交代している。次に示す4つの地図(図1〜図4)は鈴木・山本による世界の気候変化のまとめであり、図中の横軸は1万年間の時間、縦軸は気温等である。各気温変化のグラフ中に、縦に矢印が入っているところが、「3500年前」の位置である。全般的に世界各地で気温が寒冷化し、又は、寒冷に転じてきた事がわかる。黄河文明は、「神農氏」の支配を打ち破った伝説の帝王・黄帝が支配領域を広げたことによるとされるのも、この頃に相当するかもしれない。その後、世界は、概ね寒冷的になり、イエスキリストが現われた頃は小氷期と呼ぶべき時代に入っていた。

 図1

 図2

 図3

 図4

 問題は、原因である。このような気候変化の原因を、これまでは、火山噴火に代表される地球内部の活動によるものか、それとも、黒点に代表される太陽活動によるものか、という程度の論議しかなされていない。恒常的に地球に衝突する宇宙の塵の関与や、彗星・小惑星の影響までは、真面目に取り組まれていなかったことは否定できない。というよりも、現象の解明が急で、原因についてはこれから、というのが正直なところであろう。

7. 4500年前から10,000年前

 多くの遺跡によって、人類文明の発生が顕著になるのは、最後の氷河時代が終了して、地球が温暖化に向かう1万年前以後であることがわかっている。わが国では、縄文海進として知られる、海が陸に押し寄せてきた時代で、近年、その変化はかなり急激なものだったと推定されるようになってきた。

  下の図は、過去1万年間の関東平野における気温の移り変わりで、傾向としては、世界各地で似たことが起きていた。およそ、6000年前くらいが温暖化のピークであり、このころ、世界各地で農耕文明が発生し、巨石文化や、よく計画された都市遺跡が知られている。たとえば、現在は文明から取り残されているかに見えるニューギニアにも整然と計画された石造りの巨大都市遺跡等が知られている。中国の揚子江文明の中には、このころまで遡れるものもあるのではないかと推定されている。サハラ砂漠はこのころ緑の豊かな大地で、人類は大量の野性動物を食べ尽くし、森林を消耗していった。メソポタミアでも、装飾陶器が作り出される整然とした都市文明が栄えていた。

 図5

 図6

 その後、およそ5000年前になると、世界各地で、農耕とそれに支えられる古代文明がいくつも開花している。そのころから乾燥と寒冷化が世界各地で進行し始め、農耕地域の後退も進行する。食料に欠乏した人口が、残された豊かな農耕地帯に侵入を始め、古代の戦争が人類の急速な技術革新を生み出していく。この、4500年前を中心とする寒冷化と乾燥化によって、初期の人類文明は交代を繰り返し、最も初期のものは、遺跡にしか姿を留めていない。5000年前頃のわずかに残る古代説話のなかに、それを偲ばせるような記述も見られるが、古代説話そのものの解明が遅れている現状では、何が起きたのかすら、良くわかっていない。三内丸山遺跡もこの頃のものである。

 一般的には、崩壊する文明は、混乱のなかでその事蹟を残せないことが普通である。交代した次代の文明がほとんど引き継がないことも、歴史的事実であろう。交代した方は、混乱の最中に急速に確立したというより、かなり後になってから勢力を拡張・安定化したケースが多いので、崩壊の時点で何が起きたのか定かではない。歴代中国王朝の歴史書では、次代の王朝が前の事を書くことになっているが、同じ文明圏の中での交代は良く記録が残されているものの、別のカテゴリーの文明では、文書の散逸のほかに、前の世代を理解できない、という事態が生じている。代表的事例では、中央アジアの乾燥化が進み、内部崩壊を食い止めることができなかった世界帝国の大元ウルスを打倒して引き継いだ明王朝は、元史の編集をおざなりにすませている。クビライが完成させた世界帝国の概念は、アラビア語の書物に隠されて、近代ヨーロッパ文明の生みだした「世界市場イデオロギー」の直接的な根幹になっていることには、ほとんど注目が払われていなかった、という。わずか、数百年前の歴史的事実ですら、良くわからないところがあり、そのころ地球の陸半球の中心を襲った寒冷化と乾燥化、そして黒死病の恐怖が、どの程度のものであったのか、更には、その変動をもたらすに至った原因が何だったのかすら、判然としていない。

 1万年前となると、もっと、わからなくなる。もはや、文献資料に頼ることは難しい。我々は、古代遺跡に残されたさまざまな物質を手にとり、分析して推定を重ね、各種の情報を繋ぎ合わせてていくだけである。1万年前の急速に温暖化が進んだ時期に、人類文明は新しい段階にいたり、世界各地で農耕文明に先行する技術が蓄積され、わが国でも土器文明が栄えることになった。

8. 12,000年前

 実は、1万年前の温暖化開始の前にも、温暖な時代があった。それが、12000年前である。最終氷河期は、1万8千年前が最寒冷期であり、実際には12000年前に終了したといっても良い程であるが、更に、もう一度寒冷化が起きたため、この温暖な時期は最終氷河期に入れられている。人類が本当の意味で新しい段階に入り、農耕に先行する技術や道具を高度に使う技術を獲得し出したのは、この時期からである。

 最初のアメリカ人が大平原(プレーリー)に姿を見せたのがおよそ11500年前であり、それから千年程度で南アメリカの南端にたどり着いている。このころは、まだ狩猟に頼っていたため、人類が移動するフロントでは豊富な野性動物を食べ尽くしてどんどん人口が増えているが、通過した後ろには、食料に乏しい荒れ果てた平原が広がった。そこに寒冷化が襲ったため、アメリカ大陸では、人類文明は相当のダメージを経験することになる。

 一方、旧大陸の各地で森林の相が急速に変化し、後氷期の世界へと人類は転換していく。中央アジアの内陸部における湿潤な洪水跡がいくつも見られるようになり、日本列島では、初期の縄文人が土器を作り出している。

 この時代の人類は、天空をどのように見上げていたのだろうか。時々落ちる流星や、地上で発見される隕鉄をどのように見たのだろうか。急速な温暖化が何によってもたらされたかを知る由もなく、増大する食料を求めて、森林を駆け巡っていたのだろうか。

 しかし、危機は何度も訪れる。長く住んでいたところに急に海が押し寄せてきたり、豊富な森林が枯れ果てていく。それは、一義的には気候変動によってもたらされたと考える方が、理にあっているだろう。では、なぜ気候変動が起きたのか?なぜ、急速な寒冷化が促進されたり、温暖化がもたらされるようになったのだろうか?

9. 「宇宙からの来訪者」

 現在は、小氷期の後の、次第に温暖化しつつ、時々寒冷になる時期に当たっているが、過去の急速な変化の時代に比べて、比較的安定しているといえるだろう。

 もし、急速に変化するとすれば、何によってもたらされるのだろうか。石油を燃やしすぎたために「温暖化ガス」が大気に充満して海水準があがるのか、太陽活動が衰えたり、火山噴火の塵によって太陽光線がさえぎられて、再び寒冷な時代に戻るのだろうか。そこには、「宇宙からの来訪者」についての究明はなされていない。いたずらに危機を煽るべきではないが、宇宙から多数の物質が飛来して地球大気で燃え尽きていることは、恒常的な事実である。それが、より大きなものにならない保証もない。

 我々は、過去に大いなる文明の激変をもたらした気候変動の原因について、ほとんど何も知らない事を謙虚に受け止めなければいけないだろう。どのような可能性が変動を大きくするのかについて、詳しい事実を積み重ねる必要がある。その中には、当然、「宇宙からの来訪者」も含まれなければならない。

 このシリーズでは、次回から、より古い時代の絶滅と小惑星衝突跡を訪問する旅に出かけることにしよう。

参考書:鈴木秀夫・山本武夫「気候と文明・気候と歴史」朝倉書店(p.50〜53の図を引用)


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