JSGA会員第一号宇宙飛行士・土井隆雄さん インタビュー

       第一回・『宇宙は人に優しい環境だ』

                  矢野 創(NASAジョンソン宇宙センター)


 昨年11月にスペーシャトルに乗り込み、船外活動を行なって日本人として初めて「月になった人」土井隆雄宇宙飛行士。彼は宇宙を飛んだ最初の日本スペースガード協会(以下JSGA)会員でもあり、協会の旗をスペースシャトルへ持ち込んでくれました。今回そのお返しとして、運営委員が共同執筆した本『小惑星衝突』(ニュートンプレス社刊)を贈呈するため、9月2日に宇宙開発事業団(以下NASDA)ヒューストン駐在所へ土井さんを訪ねました。お忙しいスケジュールを縫ってお会い頂いた土井さんは、えんじ色のSTS-87ミッションポロシャツによく日焼けした身体を包み、バックパックを担いで颯爽と登場。応接室で本をお渡しした後、宇宙飛行の体験談から協会への入会のいきさつや宇宙を飛んだJSGA旗に関するエピソード、有人宇宙活動の将来や休日の過ごし方、そして『あすてろいど』読者へのメッセージまで、ざっくばらんにインタビューに応じて下さいました。本号と次号の二回に分けて、そのハイライトをご紹介します。(内容の文責は全て報告者にあります。)

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宇宙へ飛んだJSGA旗

矢野創(以下矢野)「はじめまして。本日はお忙しいスケジュールの合間を縫ってお時間を作って頂き、ありがとうございます。」

土井隆雄(以下土井)「こちらこそ、今日はどうぞよろしく。」

矢野「STS-87(注:STS = Space Tarnsportation Systemの略。スペースシャトルを使ったミッションは通し番号をつけてこう呼ばれる。)の初飛行では、JSGA旗を宇宙へ持っていって頂き、改めましてありがとうございました。宇宙旅行を終わって磯部会長の元へ届けられた旗は、JSGAの講演会で報告・展示して、会員や他の観衆の皆さんにお見せしました。今日はお返しに、運営委員が共同執筆した『小惑星衝突』を献本させて頂きます。訓練や移動の合間にでも読んで頂けたら幸いです。」

土井「どうもありがとうございます。」

矢野「ところで、JSGAへ入会されたそもそものきっかけは何ですか?」

土井「会長の磯部先生が過去に何度かヒューストンにいらっしゃって、よく宇宙の話をしました。その中でスペースガード協会の話が出て、面白い活動だと思い、入会させて頂きました。」

矢野「JSGA旗のような記念品は、いくつまでシャトルオービター内へ持っていけるのですか?」

土井「正式にはOFK (Official Flight Kit)というんですが、あらかじめ申請すれば10品目まで、出身校の旗や家族の写真など、軽くて小さな私物を持っていくことができます。」

矢野「土井さんが関わっておられる団体は数多くあるでしょうに、たった10品目の中で、あえてJSGA旗を選んばれたのはどうしてですか?」

土井「JSGAは宇宙に関連した新しい民間組織だし、何より目標に夢があるというか、もしかしたら将来地球を救うことになるかも知れない、人類の発展のために重要な研究活動だと思ったので、ぜひ持っていかせてほしいとお願いしました。」

矢野「なるほど。ところで旗は飛行中オービターのどこに入っていたのですか?」

土井「キャビンの床下だったと思います。もっともしっかり密封されて、ミッション中に私自身は取り出せないのですが。」

矢野「『地球を救うかも知れない活動』という点については、例えば最近の映画『ディープ・インパクト』や『アーマゲドン』では、地球に近づきすぎた小天体を分裂させる有人ミッションが出てきます。」

土井「ええ、観ましたよ。」

矢野「実際の宇宙飛行士として、ミッションの場面はどのように御覧になりましたか?」

土井「う〜ん。私の考えでは、もし将来地球と衝突する危険のある小天体が見つかるなら、それは衝突まで20〜100年くらい前になるというのが現実的だと思います。ですから映画のように地球近くで破壊するよりも、もっと遠くにいる間にロケットを送り、わずかに軌道を変えることで済むでしょう。」

矢野「アーサー.C.クラークの小説『神の鉄槌』では、正に木星軌道に待機していた宇宙船が小天体とランデブーして、『ちょっとだけ』押すのですが上手くいかずに地球へ向かって....という筋書なんです。いずれにしても、まずは世界中に地上観測網を敷いて、暗くて小さな地球近傍小天体の軌道を次々に決定していく作業が大切だという示唆は全ての作品に共通していますね。」

自分が作ったロケットで宇宙を飛び回りたい

矢野「今回のインタビューを引き受けて頂いてから、WWWに載っている履歴で予習させて頂いたことを最初に白状しておきます。宇宙研(注:文部省宇宙科学研究所)でロケット工学の研究で博士号を取られた後、NRCのポストドクター(注:National Research Councilは米国科学アカデミーの下部組織で、博士号を持つ研究者を一定期間、全世界から公募で国内の研究施設へ招へいする制度を持つ。報告者も現在同じ身分でジョンソン宇宙センターで研究している。)としてNASAのルイス研究センター(注:オハイオ州クリーブランド郊外にあるNASAの研究所。現在は主に新型推進系や電力系の研究が行なわれている。)に行かれていたのですね。」

土井「はい、宇宙飛行士に選ばれるまでのわずか半年でしたけど。」

矢野「学生時代にはどのような研究をなされていたのですか?」

土井「子供の頃の夢は、自分で作ったロケットで宇宙を自在に飛び回ることでした。だから大学で、航空宇宙工学を専門しました。宇宙飛行士になる以前にも、いわばその夢に向かって進んでいたわけです。大学院時代とその後2年間研究生をやった期間の計7年間を、私はまだ東京の駒場にあった頃の宇宙研で過ごしました。(注:宇宙研は1986年に現在の神奈川県相模原市のキャンパスに移管された。)所属は秋葉研(注:秋葉鐐二郎研究室。秋葉教授は宇宙研での固体燃料ロケット開発の中心的役割を担われた。前宇宙研所長でもある。)です。修士では固体燃料のノズル内の流れを研究しました。博士課程では、もっと効率の良いエンジンを研究したいと思い、電気推進に目をつけたのです。」

矢野「電気推進は栗木教授の元、SFU(注:日本初の再利用型の無人宇宙実験用衛星。1995年にH−2ロケットで打ち上げられ、96年に若田光一宇宙飛行士が搭乗したスペースシャトルで回収された。)での実験を得て、2002年に打ち上げられる宇宙研の小惑星探査機MUSES-C(注:地球近傍小天体の表面のかけらを採取して2006年に地球に持ち帰る計画。)のメインの推進系になるところまで来ました。」

土井「ええ、そのため栗木研のセミナーにも顔を出すようになり、新しい研究仲間と仲良くなりました。彼等とはキャンプにいったり、夜遅くまで宇宙研で過ごしたりしました。」

矢野「土井さんの青春の大きな部分は、宇宙研の駒場キャンパスと共にあるのですね。」

土井「その通りです。」

矢野「その直後に渡米されたわけですが、NASAでの研究もやはり電気推進に関するものですか?」

土井「ええ。当時ルイスで液体燃料とイオン推進の中間というか、アーク放電を利用した『アークジェット』という推進系が宇宙ステーションでの利用のために研究されていました。電気推進自体は10〜20年間も研究がなされていますが、現在でも大出力のパワーを宇宙でどうやって確保するかという問題は残されています。」

研究者と宇宙飛行士の間で

矢野「ルイスに行った当時、自分の将来についてどのような展望を持っていらしたのでしょう?現在の仕事についていなかったら、やはり電気推進の研究をしていたのでしょうか?」

土井「やはり、そうでしょうね。当時は、とにかくNRCで1年ないし2年、ルイスで存分に研究をやってやるぞ!という気持ちでした。NRCの後はもうしばらく宇宙開発の地元であるアメリカで頑張ってみたかったし。その後の仕事も、まあそのときになればなんとかなるだろう、というくらいにしか考えていませんでしたね。とにかく世界の『宇宙開発の中心地』で仕事をしてみたいという気持ちが強くて、NRCでもNASAを選びました。」

矢野「それは同感です。しかし、間もなくNASDAの宇宙飛行士候補者の第一期生に選ばれる。選抜中は日本と米国を往復したのですか?どのようなお気持ちだったのでしょう?」

土井「いえ、渡米した時はすでに2次選抜が終わっていたので、試験毎に日本へ戻ることはなかったんです。3次選抜の医学試験でここジョンソン宇宙センター(以下JSC)に来ただけです。自分では選ばれるとは全く思っていませんでしたから、与えられた仕事をしっかりすることを心がけて、試験の時にはでかけていく。そういう気持ちの切り替えをして、わりと淡々としていたと思います。」

矢野「いざ宇宙飛行士に選ばれると、それまでのイメージとは違う、意外だったことはありますか?」

土井「試験を受けている段階では宇宙飛行に関する適性を調べられたのですが、実際に選ばれた後は、最初のミッションが材料実験だったので、様々な新しい研究を学んでいくという印象でした。宇宙飛行の訓練をするというよりも、科学者として仕事・実験を成功させるための訓練だった点が少し意外でした。宇宙を飛ぶのに必要な訓練はJSCに来て初めて行ないました。」

矢野「当時は宇宙飛行士像も昔のテストパイロットから様々な分野の研究者へと変化しつつある真最中だったんですね。ところで良く仲間と議論するのですが、研究者出身の宇宙飛行士にはある種のジレンマがありませんか?つまり、まず優秀な研究者でなければ宇宙飛行士には選ばれない。しかし優秀であればこそ、長い訓練のために自分の専門分野での最先端の研究に参画できなくなることに葛藤を感じるという?」

土井「それはあります。確かに宇宙飛行士になると、これまでの自分の研究をある意味放棄しなくてはいけないので、研究者出身の飛行士がそのようなジレンマを感じることは正常だと思います。でも逆に、宇宙を経験することによって得るもの、多くの他の研究分野を新たに学べること、様々な背景を持った多くの人々と出会えることなど、この仕事特有のメリットも考えて自分を納得させるプロセスがあると思うし、実際納得してきました。 しかし私は、今後も研究者としての資質やバックグランドは失いたくないと思っています。ですから今も、休日や夜の時間や訓練以外の時間を上手くやりくりして、研究活動に触れるようにしています。」

矢野「チャレンジャー事故で全てのシャトルミッションが停止していた時期、コロラド大学ボウルダー校で微小重力下での流体力学を研究をされていましたね。また、向井千秋宇宙飛行士が搭乗したIML-2ミッションではプロジェクトサイエンティストも務められました。現在のJSCでは、現役の宇宙飛行士でも実験室でデータを出したり、投稿論文を書ける環境なのですか?」

土井「できますよ。宇宙飛行士には、訓練以外にも勉強する時間が充てられています。もっとも実験室で実験したり、論文を書くのにかかる通常の時間よりは短いですが。これは飛行士それぞれ異なるのですが、宇宙飛行士は誰もが自分のユニークさを出して、自分の宇宙での経験を他の人に伝えていこうと工夫します。これは科学ミッションばかりに限ったことではありませんが、私の場合は研究者としての資質を維持することで、地上の研究者・技術者の方々に自分が得たものを上手に伝えられたら、と思っています。」

宇宙飛行士冥利に尽きる

矢野「STS-87での体験について伺います。船外活動(以下EVA:Extra Vehicular Activity)では体内や五感の感覚が、弾道飛行やスキューバダイビングと比べてどう違うのでしょう?」

土井「今までこういった人はあまりいないと思うんですが、『宇宙は人間の身体に<優しい環境>なんだな』という発見です。でも考えてみれば当り前で、『宇宙に浮いている』ということは、外から身体に何の力も働いていない状態です。中性浮力に調節されたスキューバダイビングでも、身体を動かすときには水の抵抗を感じますし、内臓には重力を感じます。でも宇宙ではそれらすら感じません。とても自由なんです。肩こりとか腰痛といったものは、身体に重力がかかって無理をするので起こります。宇宙では、過激な運動をしない限りはとても身体が安定しています。初めてエアロックのハッチを開けて船外で出た時も、何の恐怖も感じませんでした。よく言われる『宇宙酔い』というのは、そうしたやさしい環境に順応する過程で、いつも重力を感じてきた身体が戸惑っている間に起こるのだと思います。一度順応してしまえば、とても気分の良い環境です。」

矢野「実際に飛んだ方ならではのコメントですね。その他にもこれは直接体験する以外にない、どう表現しても他人には伝えられないという経験はありましたか?」

土井「まず寝ているときに感じる、『自分の意識だけが空間に浮いている』という感覚です。地上のベッドの上では自分の身体の位置を意識できますね。でも宇宙では身体を抑えつける作用・反作用がありません。身体が完全にリラックスして、自分の手足の位置がわからないんです。あとは、やはり『宇宙から眺める地球の美しさ』。スペースシャトルは地球低軌道を秒速約8km/sで回っているので、次から次へと景色が変わるんです。まるで地球の方が自分の目の前を回っているように。またそれが遅すぎもせず速すぎもせず、ちょうどいい速さなんです。EVAをすると特に強く思います。シャトルのコックピットの窓はテレビ画面ほどの大きさしかありません。船外に出ると視界いっぱいに地球が拡がります。」

矢野「360度見渡す限りのIMAXシアター状態?」

土井「そうそう。とても薄い大気光の層が美しい真っ青な光を放ち、その上に暗黒の宇宙が拡がっていて。地球は本当に美しい星なんだな、と思いました。」

矢野「では、STS-87ミッション全体を通じて一番嬉しかった思い出は何ですか?」

土井「やはりスパルタン衛星を素手で捕まえた時です。人工衛星の捕獲はシャトルを使った作業の中でも、一番大変な仕事なんです。STS-87では3日目に軌道投入に失敗した時点で、衛星を失ったと思ってました。6日目に素手で捕獲することが決まり、その日は朝からEVAの準備で忙しく、誰も昼食を食べなかったと思います。私自身も7時間43分のEVAをしました。衛星とのランデブーは通常5人は必要な仕事なのですが、今回二人はEVAを行ない、カルパナ(チャウラ飛行士)はEVA の支援をしたので、パイロットとコマンダーの二人だけで衛星に近づかなくてはいけなかったのです。このように様々な要素が組み合わさっていて、どれか一つでも失敗すれば成功しなかった。それがクルー仲間との連携プレイで全て上手くいったのです。」

矢野「アポロ13号の時もそうですが、今回のような不測の事態のときにこそ、宇宙飛行士の本質が問われるのでしょうね?」

土井「ええ。でもアポロ13号の時はさらに複雑で、地上とのチームワークが大変重要だったと思いますが。それでも、一度はあきらめた衛星を自分の手で再び回収できたとき、『宇宙飛行士冥利』に尽きると感じました。」

矢野「そうした事態では周りはピリピリしていたのでしょうか?何か気に入ったジョークはありましたか?」

土井「う〜ん。そうですね、EVAの相棒のウィンストン(スコット飛行士)がやっとスパルタン衛星の回収に成功したとき、『衛星を捕まえたけど、さてこれからこいつをどうしようか?』と言って大受けしたんですが、あれは面白かったですね(笑)。」

矢野「一つのジョークが、大仕事を成し遂げた後の皆さんの雰囲気をなごませたんですね。」

                           (次号に続く)

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最初の写真:NASDAオフィスにて寄贈された『小惑星衝突』を持つ土井隆雄さん

最後の写真:STS-87ミッションにおいて、素手でスパルタン衛星を捕獲した土井・スコット両宇宙飛行士(写真提供NASA))


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