Houston, I have a problem.

              (第2回)
      宇宙時代の第二幕が始まった:開拓し続ける精神

                 矢野 創(NASAジョンソン宇宙センター)


タイムマシンとクリスマスプレゼント

 人間の一生と同じくらいの時間スケールを持つ天体現象は、一種のタイムマシンです。

 昨年の11月18日未明、私は沖縄上空で米空軍の科学観測用航空機に搭乗し、32年ぶりの、そして自分には初めてのしし座流星雨の観測を行ないました。前回の1966年、米アリゾナ州キットピーク天文台では1秒に40個(1時間換算15万個!)の「流星嵐」に遭遇したそうです。当時の目撃者は、「地球がしし座に向かって猛スピードで飛んでいくのが実感できた」といいます。

 その頃の世界は冷戦の真っただ中にあり、米国とソ連は熾烈な宇宙競争を繰り広げていました。NASAは昨年で40周年を迎えましたが、それはこの組織が1957年のスプートニクショックに対抗して創設されたことを物語っています。しかしこの競争は結果として、人類をそれまでとは全く異なる世界観へ導く牽引車となりました。

 キットピークでの流星嵐の2年後、1968年のクリスマスに、初めて月の裏側へ到達したアポロ8号の乗組員から地球上の人々へ、あるプレゼントが送られました。それは暗黒の宇宙に浮かぶ小さな、しかし神々しいまでに美しい青い球体としての地球を映した一枚の写真でした。この年以降に教育を受けた子供達は、このちっぽけな星の上に自分の家族や生まれた国だけでなく、全ての人々、全ての生き物が、微妙なバランスの上で共存していることを知っています。この時代、人類はようやく自分達が搭乗している『宇宙船地球号』の姿に覚醒したのです。現在盛んに地球環境問題やグローバルビレッジが議論されるのも、この世界観の飛躍が原点なのです。

 最近JSC周辺で起きた宇宙開発の大きな転換点、今回はそこを出発点に、これまで宇宙開発が世界をどう変え、また今後どう変えていくのかを、「しし座流星雨のインターバル」で大胆に考えてみました。また、宇宙時代を支える精神とは一体どこから来るのでしょう?

老人と宇宙

 しし座流星群極大期の2週間ほど前から、観測器材の設置やテスト飛行のため、私はカリフォルニア州モハベ砂漠にあるエドワーズ空軍基地に滞在することになっていました。出発前日のお昼過ぎ、ジョンソン宇宙センター(JSC)の食堂からオフィスへ戻る途中に、T-38ジェット機の編隊が上空を南下していきました。そこに乗っていたのはきっと、77歳のジョン・グレン上院議員や向井千秋さんらSTS-95ミッションのクルー達でしょう。今回の飛行が、国際宇宙ステーション(ISS)建設以前にシャトルで行なう最後の科学ミッションです。彼等の宇宙滞在期間は9日間。5年後にISSでの通常運用が始まると、10倍の90日間になります。向井さんの信条「仕事場は宇宙」をもじれば、ISSの時代は「生活の場も宇宙」になるのです。宇宙開発は、再び飛躍の時を迎えました。

 STS-95の80余りの実験テーマは、宇宙科学の各分野のシャトル時代の総決算のようなものが多く、私は成果を大いに期待しました。しかし報道は、1962年に米国人初の軌道周回飛行を行なった『アメリカンヒーロー』・グレンさんに集中しました。しかも今回は、他の追随を許さない、最高齢宇宙飛行記録の更新です。このの帰還は、米国の宇宙開発史の成熟を実感させました。フロリダ州ケープカナベラルのシャトルの打ち上げ場ケネディ宇宙センターの近くに『宇宙飛行士殿堂』があります。そこでは、既に60−70歳代になった『ライトスタッフ』時代の飛行士が「共同体の良心たる長老」の役割を担い、「栄光を引き継ぐのは君達だ」と子供達にメッセージを送る啓蒙運動に尽力しています。そこには世代交代への明瞭な意思が見受けられます。

宇宙時代第一幕・起承転結

 世界大戦直後から続いたロケットの開発競争が初の人工衛星スプートニクを生み、宇宙時代は第一幕を開けました。まもなくガガーリンやシェパードらに代表される有人飛行が開始され、その後のアポロ、シャトル、ミールの時代を迎えたのです。その第一幕の中にも起承転結があります。
 まず、そもそも人類が宇宙へ進出できるのかを確認した時期。グレンさんの初飛行はまさにこれで、「人は宇宙でも目が見えるのか?」「食事ができるのか?」「現在のシャトルやミールのようにルーティンで働けるか?」を調べるための飛行でした。続くアポロの月面着陸に至る月レースからアポロ・ソユーズのドッキングまでの期間に、米ソは現在必要な有人飛行に必要な基礎技術のほとんどを習得しました。それからソユーズやスカイラブに始まりスペースシャトルやミールに至る、本格的な宇宙科学研究が始められました。最後はミール(平和)に対抗した西側陣営の象徴としてのフリーダム(自由)が、冷戦の終結とともにシャトルとミールを軸に再構築されたISSの第一フェイズです。これは92年に政権交代をした米国からの、ロシアへの経済支援の一環であり政治的だと批判する人もいました。しかし私は、経験豊富なロシアの宇宙技術の喪失は人類全体の損失であり、正しい選択だったと思います。ともかく、こうして宇宙開発は競争から協調の時代へ転換したのでした。

真夜中の太陽・第二幕のプレリュード

 振り返ると米国の有人飛行の第一幕は、1961年のシェパードの弾道飛行と翌年のグレンの軌道周回飛行で始まり、1998年に前者の死と後者の再飛行で終わったのでした。

 しし座流星雨観測を終えて日本から帰ってきた翌日にも偶然、一月前と同じT-38ジェット機の編隊を所内から眺めました。今度はSTS-88のクルー、二週間前にカザフスタンから打ち上げられたロシアのザ−リャ(夜明け)モジュールとNASAのユニティー(団結)モジュールのドッキングミッションのチームです。いよいよISSの建設が始まるのです。その翌日には私も仕事のためにケープカナベラルへ飛びました。シャトルオービターは宇宙から地球へ帰還するたびに機体への微粒子衝突の影響を調査します。これは私の所属部署の仕事なので、今回の飛行前・飛行後検査を手伝うことになったのです。

 嬉しいことに「ボーナス」として、打ち上げ場から湖を挟んで真正面に4マイルだけ離れた、NASA専用の展望スペースへの入場パスをもらいました。そして双眼鏡片手に、満月が輝く12月3日の夜中に予定されたSTS-88の打ち上げを見にいきました。でもこの日は燃料電池の不良が直前に見つかり、打ち上げ15秒前で中止されました。翌日気を取り直して再び、真夜中の湖畔に向かいました。

 その日もしし座はすでに空高くにあり、流れ星も3つ4つ飛んでいました。家族連れの関係者が賑やかに談笑する中、前日と同じ順番で確認作業をするクルーとミッションコントロールのやりとりが、道沿いのスピーカーから響いています。打ち上げパッドに巡らされた無数の電灯とサーチライトに彩られたスペースシャトルは、まるで一足早いクリスマスツリーのようです。双眼鏡で覗くとオービターの翼に描かれたNASAのロゴまではっきり見えます。3時35分。今度は予定通りにカウントダウンが行なわれ、主エンジンが点火されて機体がゆっくりと揺れました。その直後、両脇の個体ロケットブースター(SRB)に火がつき、シャトルは音もなくゆっくり浮き上がりました!

 「真夜中の太陽」とでも言いましょうか、間もなく双眼鏡を通すと眩しさで目を開けない程に輝きが増したので、それ以後しばらく肉眼で眺めることにしました。打ち上げから約20秒後、シャトルが巨大な煙の柱を作りながら上昇していた時に、ようやく打ち上げ時の轟音と空気の振動が私の身体にたたきつけてきました。この時私は、高校生のとき校舎の屋上に登り、夕闇迫る東京の上空を通過する金色に輝くシャトルを初めて見て、「あの光の中に人がいるのか!」と感動したことを思い出しました。同時に、今度はあの「真夜中の太陽」のてっぺんに人が乗っている!という事実には、なかなか実感を伴いませんでした。それほど目の前で放出されているロケットのエネルギーは、私を圧倒しました。一度これを体験したら、掛け値なしに自分も乗ってみたくなるか、恐怖で絶対に乗りたくないと思うかの二つに一つでしょう。

 地球の丸みに沿った煙のアーチを描きながら、SRB切り離しはもちろん、地平線上の遠い雲の彼方に消えるまで、オービターは打ち上げから約6分間見えていました。オービターはその後150秒足らずで主エンジンを停止し、秒速7.8kmの軌道速度に達して、微小重力環境に入ったはずです。宇宙はなんて「近い」んだろう!

 再びヒューストンに戻った後も、毎日「NASAセレクト」というケーブルテレビ局で、モジュールのドッキング、船外活動、ISS内の点検・整備などの様子が逐一放送されていました。シャトルのミッドデッキからユニティー、ザーリャと延々とカメラが移動する様子を眺めて、「随分広くてきれいな空間だな!」というのが第一印象でした。完成は5年後という意識が強かったので、10日前に打ち上げを見た施設がもう「宇宙ステーションそのもの」として機能している!というのは、まるで未来の映像を見ているような気分でした。

 全てを成功させてSTS‐88のクルーがヒューストンに帰ってきた日、所内のホールで祝賀パーティーが開かれました。ISSの建設に携わった職員や契約企業のエンジニア達が、交差点から会場まで500メートルはある直線道路の両端が車で埋るほど集まりました。スピーチをしたボブ・キャバナ船長の笑顔も紅潮し、それを聞く聴衆の表情にも達成感が溢れていたのが強く心に残りました。同時に私自身も、宇宙科学に携わる者として歴史が創られている現場で働ける幸運を感じました。宇宙時代の第二幕はこうして開かれたのです。

ずっと、もっと、誰もが

 STS-95とSTS-88を境に「英雄の時代」は過去のものとなり、国際協力を基調とした新しい有人活動が始まりました。今度の舞台では、ISS以外に何が起こるのでしょう?私はシャトルの打ち上げを体験して以来、「もっと長く、ずっと遠くへ、誰もが」宇宙へ行かれる時代を創ることが、第二幕を生きる私達の世代の役割なのではないか、と考えるようになりました。

 まず『いつも継続して宇宙へ行かれること』。ご存じのように、ISSは人類初の宇宙基地ではありません。ソ連〜ロシアには70年代からミールに至る長い歴史がありますし、米国にも短期間ながらかつてスカイラブがありました。しかしこれらは全て断続的で、しかも限られた国の利益しか追及されていませんでした。ISSからは、人類が常に宇宙空間で生活し、全人類の利益を目指した研究をする歴史が始まります。勿論それには世界経済の安定や地上の平和が必要条件ですが、十分条件は宇宙の「継続可能な開発」です。そのためには「宇宙の環境問題」であるスペースデブリの規制や、「宇宙の天災」である太陽フレアバーストや小天体衝突(スペースガード!)等に関する研究が益々重要になります。これらをおろそかにして、もし現代人が「宇宙に進出した人類史上最初で最後の世代」になったら、こんなに悲しいことはないでしょう。

 二つ目は『地球周辺から解放され、太陽系のより遠い様々な場所で活動すること』。JSCの私の所属部門では毎週、有人惑星探査の将来計画や火星のサンプルリターン計画の青写真を描く会議が開かれています。ISSが成功すれば、その後に月への駐留や火星有人探査への展望が開けてくるでしょう。さらに将来は、火星の衛星や地球近傍小天体の科学調査や鉱物資源採掘にも、ロボットと一緒に人間が参加するかも知れません。

 当然、そこに至るまでに解決すべき技術課題は山積しています。例えば、地球低軌道上の宇宙基地やシャトルと違い、火星探査機は事故があってもすぐに地球へは帰れません。宇宙線にこれほど長期間被曝した人体に起こる変化も分かっていません。食料は往復3年分も積めないので農作物を栽培します。空気や水も完全にリサイクルする必要があります。いわば宇宙船の中に「小さな地球」(生態系・エネルギー循環系)を作る必要があります。そうした閉鎖系の長期間模擬実験は、過去にアリゾナ州の『バイオスフィア2』で行なわれ、JSCでは現在でも実施されています。また社会心理学的な側面は、南極基地や潜水艦内でのデータも参考にされています。

空飛ぶおにぎり

 そして三つ目は、『誰もが宇宙へ行かれること』。これまで宇宙は政府や軍によって選ばれた若いエリートだけに許される空間でした。それでも宇宙へ行ってみたいという一般の人々は後を絶ちません。最近では、せめて名前だけでも他の天体へ連れていってもらおうと、土星、彗星、そして火星探査機に一般公募で署名を送るのが流行しました。私も宇宙研に勤めていたとき、国内27万人から火星探査機「のぞみ」へ届けられた署名の2%くらいを切り貼りしました。その時ハガキに書かれた様々なコメントを読み、一般の方々の天空への憧れや宇宙開発への期待の大きさに改めて目を開かされました。今年火星の南極に着陸する予定のマーズ・ポーラー・ランダーに至っては、世界中から93万人もの子供の署名が集められたそうです。(ちなみに、もし私が日本のミッションで同じことをやらせてもらえたら、プリクラを募集するんだけどなあ。)

 このような社会意識の高まりにもかかわらず、今まで民間人が宇宙へいく道が閉ざされていたのは、安全、コスト、メリットの3点が彼等を満足させられるレベルに達していなかったからでしょう。安全についてはグレンさんのシャトル搭乗が証明したように、すでに現在の宇宙技術は、健康な人物ならば年齢に関係なく軌道周回飛行が可能なレベルにあります。では残りの二つが満たされた時、人々はこぞって宇宙へ行くようになるでしょうか?

 私はイエスと答えます。映画『アポロ13号』の中でラヴェル役のトム・ハンクスが、「アポロ11号でアメリカは月レースに勝ったのに、なぜまだ人を月に送るの?」と尋ねた婦人に次のように答える台詞があります。

『じゃあ、コロンブスが新大陸からヨーロッパに戻った時にもし後に誰も続かなかったら、今ごろこの国はどうなっていたと思います?』

 大航海時代、船乗りこそが人類の活動圏の外縁を押し拡げるパイオニアでした。彼等と共に最初は冒険家が、すぐ次に軍隊が、その後に科学者が船に乗り込みました。そして、その次に続いたのは商人や観光客、移民達でした。20世紀の航空機の時代になっても、全く同じ順序でした。そして今、宇宙飛行も同じコースを辿りつつあります。

 コストはどうやって下げるのでしょう?現在のシャトルではペイロード1kg当たり100万円以上かかりますが、ズバリこれを「1桁」下げて10万円にする。秋葉原のコンピュータ市場みたいな話ですが、実はこれが宇宙開発の最先端の潮流なのです。成功の鍵は、運用コストの大幅削減と「完全再利用型輸送機(Reusable Launch Vehicle (RLV)」の開発です。NASAは2005年までにRLVを持つと宣言して、90年代初めのDC‐X機から現在のヴェンチャースター(私は「空飛ぶおむすび」と呼んでいる。)まで、民間企業と共同して猛烈な勢いで開発を進めています。後者の試験機X‐33機は、今年中にエドワーズ空軍基地から初飛行する予定です。ちなみに日本は、2004年に無人の小型「半再利用型」輸送機(=従来のスペースシャトル)の試験機HOPE-Xを打ち上げる予定です。

宇宙賞金レース

 最後のメリットはどうでしょう?民間人が安く安全に宇宙へ行くことが地上の世界にどんな利益をもたらしてくれるのでしょう?「宇宙の民間利用」という話題になると、米国は日本とは随分違った対応を取ります。「政府による新産業育成」はあくまで最初の基盤投資と必要不可欠な技術開発まで。後はお金儲けしたい人が、自分でおやりなさい、と。実はこれが米国社会の共通フォーマットです。電信電話、鉄道、コンピュータ等、米国が世界をリードした産業は全てこうした鍛えられ方をしてきたのです。キーワードは、「民間活力」と「技術移転」です。宇宙開発でもそれができるのは、軍やNASAや巨大宇宙企業で働いた人々が独立して新しい大学研究室やベンチャー企業を作ることで、技術や知識が民間の裾野へ拡がっていくからだと、私は観察しています。

 そうした風土では、政府がリードしなくても技術革新や産業投資を刺激できるトリックがあります。それは「賞金レース」。といっても競馬のようなギャンブルのことではなく、例えば「ニューヨークからパリまで大西洋無着陸横断飛行に最初に成功した者に賞金2万5千ドルを与える」、1927年のオータイグ賞のようなものです。こうした民間競争には、明確な目標を設定して、ベストの技術や知識を持ち、かつリスクをいとわない人々を惹き付ける効果があるのは、「航空機開発の歴史は賞金レースの歴史」と言われることでも証明されています。

 さてオータイグ賞の勝者は『翼よあれが巴里の灯だ』で有名な、チャールズ・リンドバーグ青年ですね。彼の勝利の真価は、本命のベテラン達が長時間飛行に関する当時の常識であった複数エンジンなどの重装備をしているのにあえて、「軽量で安い」を旗印に単発エンジン・単独パイロットで成功させたところにあると思います。これを境に人々の意識の中の「大空」は、政府や軍だけのものから誰もが活躍できる場所に変わったのです。そして翌日から航空関連の株価が沸騰したので、現在でも世
界経済最大の産業の一つである航空業界が商売として成立するようになったと言われています。リンドバーグが打ち破ったのは「技術の壁」ではなく、実は当時の航空に対する「常識の壁」だったのです。

 リンドバーグの偉業から70年余り経ち、宇宙飛行でそれを再現させようとしたのが、1996年にセントルイスで発表された『X(エックス)賞』です。この賞金レースは、「3人の乗員を載せて最低高度100km(国際航空法で定められた「宇宙空間」の下限)に達したのちに安全に地球へ帰還し、2週間以内に同じ飛行を繰り返した最初の個人チームに1千万ドルの賞金を出す」というものです。つまり、連続日帰り宇宙旅行に必要な全ての要素を備えたシステムを構築する競争です。この呼びかけに、80年代に無着陸無補給世界一周飛行を成し遂げたバート・ルートンやヒューストン在住の元NASAロケットエンジニアをはじめ、欧米から15組がエントリーしました。X賞財団では、「2000〜2001年の間には誰かが賞金を獲得するだろう」と予測しています。それが直ちにもたらすビジネスチャンスとしては、宇宙観光飛行、超高速国際宅急便、地球上のどこでも1時間以内にいかれる小型旅客機などが挙げられるでしょう。

 このように「空飛ぶおにぎり」と「宇宙賞金レース」が上首尾に進めば、あと5〜6年後には、NASAは次世代シャトル後継機を運用し、年間数百人の民間人は自費で、地球を眺めたり微小重力を体験する日帰り宇宙観光を堪能している可能性は十分にあるのです。仮にこの予測がひどく外れても、次回のしし座流星雨が降るまでには必ず実現していると思います。

 しかし、宇宙進出の最大のメリットを人類が享受するのは、もう少し将来かも知れません。米国も本当に栄え始めたのは19世紀に入って、未開拓の土地、石油、砂金という「空間と鉱物資源」が豊富にあることを人々が突き止めてからでした。コロンブスの航海から300年以上も後の話です。一方すでに私達は、宇宙にはその二つともが文字通り桁外れにあることを知っています。そして同時に、地球にはもはやその両方が不足していることも。

宇宙開拓と米国文化

 それにしても、いくら宇宙業界でご飯を食べているとはいえ、以前から私はこれまで、「なぜ米国ではこんなにも一見SFみたいな未来図が、本気で描けるのだろう?」とずっと不思議に思っていました。しかしJSCで働くようになって、これは単に一産業の問題ではなく、米国社会の根幹に関わる問題なのではないか、と思い至るようになったのです。それは、「宇宙開発は現代米国人のメンタリティー、アイデンティティーの象徴にまで高められているのではないか?」ということです。

 ヨーロッパの人はよく「米国には文化がない」と言います。でも「宇宙のフロンティアは自分達が開かなくてはならない!」というこの国の人々の使命感(思い込み?)と「視界の尽きる彼方に、輝く未来がある」という考え方に私は一種の信仰に近いものを感じるし、それこそを現代米国文化の真髄だとポジティヴに認めてよいと思うのです。その精神が最も端的に現われているのが、故J.F.ケネディ大統領が60年代にライス大学で行なった「ムーンスピーチ」の一節でしょう。

『我々が月(に行くこと)を選んだのは簡単だからではない。達成するのが難しいと分かっているから、挑戦するのだ。』

 日本では楽観主義は無責任と言われることがありますが、それは減点主義の社会の中での話です。誤解を恐れずに言えば、共有する歴史も文化もない、世界中から出自を問わず集まった人達による人工的な国家には、減点される点数など最初からないのです。未来は今日より明るいと信じる以外なかったのです。そもそも楽観とユーモアがなくて、どうして人は将来のビジョンを語れましょう?良くも悪くも米国を米国たらしめているのは、ポジティヴな未来指向と、それに支えられた開拓者精神なんだと思います。そしてそれを最も顕著に必要とする現代の国家プロジェクトが宇宙開発なのでしょう。勿論こうしたメンタリティが、文化や伝統を重んじる外国には傲慢に映ったり、過去には原アメリカ民族の人々など、自分達の前に立ち塞がる集団を一方的に排斥するような不幸を生んだことも事実です。でも同時に少しづつですが、彼等はそこから学んで、今日のような極めて多様性のある社会を作ってきました。
 確かにフロンティアにはリスクがつきものです。しかし、だからこそこの国では、パイオニアが拡げてくれた広大な地平線と人類の新たな可能性に感謝と敬意が払われるのです。先の賞金レースの勝者が賛えられるのも、決められたレールの上での「ナンバーワン」よりも、前人未到の「ファーストワン」や他人に置き換えられない「オンリーワン」の方により価値が置かれる風土があるからだと思います。ですから私は、この国でプロの宇宙飛行士が尊敬を集める本当の理由は、宝くじのような倍率で選ばれたからではなく、人類全体の未来の可能性を切り開くためにリスクを自ら背負うことを、彼等が笑顔で引き受けるからだと思うのです。そこが米国の文化の根幹にある開拓者精神とだぶるのでしょう。

宇宙人と馬鹿者の掌の中に

 最後に、第三幕はあと何回しし座流星雨がやってくれば始まるのでしょう?まだ第二幕が始まったばかりなので、いろんな空想が許されます。ですからここからは単なる「おはなし」です。

 私は、地球を故郷としない人類が誕生して、その人が地球の大地に立たずに一生を終えたら、それは確実に人類史の新しいステージだと思います。だって彼等はもはや「地球人」ではないのですから。ですから、私達が出会う最初の「宇宙人」は、私達自身の孫かひ孫であると思います。そしてその次のステージは、(地球人か月面人か火星人かは別にして、)私達の子孫が太陽系を離れる時代で区切られるのではないでしょうか?

 こんなことを書くとトンデモ本作者にツッコまれそうですが、NASAはすでに来世紀中に恒星間(!宇宙戦艦ヤマトのように!)飛行を実現するための技術課題を検討しています。初めてこの話をJPLの研究者から聞いたとき、検討項目の一つに「反物質推進」とあったので、私はジョークだと思っていました。でも昨夏に出席したクリーブランドでの会議で、ダン・ゴールディンNASA長官も全く同じことを言いました。その時私は、いつのまにか自分の目を塞いでいた「常識」に気づきました。

 リンドバーグの飛行でも分かるように、人類の可能性の限界は多くの場合、技術によってではなく、私達自身の想像力の貧しさによって規定されています。よく「天才と馬鹿は紙一重」といいます。ところが、もし「馬鹿者」を「共同体で共有される『常識』にとらわれない者」と定義するなら、両者の間に紙なんてないのです。ある問題がそこに存在するのは、「常識」ではそれが解決できないから、つまり『非常識』の中にしかブレイクスルーが存在しないからです。そしてその「非常識」を実行できるのは、「馬鹿者」だけです。しかし彼が一旦ブレイクスルーをもたらせば、それが共同体の『新常識』となり、共同体が同一人物の称号を「馬鹿者」から「天才」に改めるだけのことです。そう考えると、私達の祖先の系譜はすべて「馬鹿者」による「非常識」の列挙であることに気づかれるでしょう。現代人は皆、海から這い出した魚、森を離れた猿、大陸を踏破し、大洋に乗り出した冒険者達の末裔なのです。そして今、私達の世代は星の世界へ飛び出しました。

 今ある常識を疑える感性。今いる場所から踏み出せる勇気。いつの時代でも、これらがフロンティアを切り拓く者の資質なのでしょう。アメリカのロケット研究の始祖ロバート・ゴダードは、次のような言葉を残しています。

『不可能なことを指摘するのは難しい。昨日の夢は今日の希望であり、明日の現実となるからだ。』
                  (次号に続く)


図1:帰ってきたアメリカンヒーロー。JSCの正面にある国道NASAロード1はSTS-95の前後には『ジョングレン・パークウェイ』に早変わり。

図2:宇宙競争黎明期の史跡、コンプレックス25打ち上げ場跡。ソ連がライカ犬を打ち上げた後、米国はここからアストロチンプ達を宇宙に送りました。「犬猿の仲」?帰還後に彼等がNASAの科学者にデブリーフィングを行なったかどうかは不明。

図3:「真夜中の太陽」、STS‐88の夜間打ち上げ。IMAX映画と違い、打ち上げ直後には何も音が聞こえないのが物理屋さん好み。(写真提供:NASA)

図4:ISS最初のモジュール・ユニティーとザーリャのドッキング。ところでミールは本当に今年太平洋に落されてしまうのでしょうか?(写真提供:NASA)

図5:JSCが開発している火星探査用スーツ。1/3Gで機動性があり、砂塵による酸化に強く、こけて岩にぶつかっても壊れない等、月面や低軌道用とは全く異なる仕様に作られています。

図6:2000年代後半に運行している「空飛ぶおにぎり」と宇宙港の想像図。機体名は「おかか」「こんぶ」「紀州梅」なんていうのはどう?(イラスト提供:ロッキード・マーティン社)


(訂正:前号で、アラン・シェパードさんはアラバマ州ハンツビルから飛び立ったと書きましたが、これは誤りです。彼もその後の宇宙飛行士同様に、1961年5月5日、フロリダ州ケープカナベラルから打ち上げられました。彼を乗せたレッドストーンロケットの開発、射出試験が行なわれたのがハンツビルでした。お詫びして訂正致します。)


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