ちょんまげ頭で見た天体

       時は幕末・天文に興味を抱いた鉄砲鍛冶、
               一貫斎国友藤兵衛の天体望遠鏡
              [第6回]

                        渡辺文雄(上田市教育委員会)


 さて、先月号までで一応の国友望遠鏡の調査について調査の経過や、各々の調査分析で解ってきたことを述べてきたが本号と次号でまとめ、終了したいと考えている。この望遠鏡の調査はまず、「曇りやすいと言われている金属鏡がなぜ曇っていないのか」というきわめて素朴な疑問からスタートしたことは、この報告の最初で述べたとおりである。しかしながら、調査が進むにつれ専門的な知識・考察が必要になり、その都度専門家の意見を聞いたり、事情が許せば我々の学術調査チームに参加もしていただいた。その結果チームの人員も増え、それとともに当初の調査項目以上の調査が行われたことも事実である。
 したがって、前述したようにごく素朴な疑問から始まったこの国友望遠鏡の調査ではあったが、結果的には一つの研究として集約されるような充実した内容となってきたことに内心驚いているところもある。昨年の秋季「天文学会」で、チームの富田氏がポスター発表をおこない、従来はその年のトピックス的な研究をテーマを取り上げることの多い記者会見を、理事長の勧めで行うなど、ここ1〜2年マスコミ等でもだいぶ取り上げられた。その結果、多くの人に江戸時代後期には、既に日本人の手によって製作された反射望遠鏡があった事ををしらしめるきっかけにはなったと思っている。

 今回は、レンズ分析の結果と金属鏡について私の解る範囲で前号よりもう少し詳しく紹介しようと思う。まず、レンズについてであるが、江戸時代には既に眼鏡職人がおり、商売をしていたことを考えると、当時レンズに関する光学知識はある程度普及していたものと考えられる。それを示す例として、本報告の最初でも触れているように、反射望遠鏡よりも約100年前の1700年代には、徳川吉宗(1684〜1751)の命を受けて、長崎のレンズ職人、森仁左衛門が天体望遠鏡を製作して献上した記録がある。
 さて、国友望遠鏡の接眼レンズは、一貫斎が添付した取扱説明を基にすると、接眼レンズは3枚玉と考えられていたが、実際に分解してみると2枚玉であった。その形式は基本的に2枚玉のハイゲンス式であるが、眼レンズをメニスカス・レンズとした独特の形式をとっている。我々が知るハイゲンスの変形としては、視野レンズをメニスカス・レンズにして視野を広げたミッテンズエー・ハイゲンス式があるが、このレンズ構成とも異なっている。またハイゲンス式では2枚のレンズは同じ材質のガラスを使うのが普通であるが、なぜか一貫斎のものは表 1.のように2枚のレンズの材質が異なっている、これはもともと一貫斎がなんらかの意図があってこうしたものか?或いは後世において何らかの理由があって、所有者がレンズを変えた可能性も否定はできない。

 しかしながら一昨年11月25日に、京大工学部の蛍光 X線分析で行なったレンズの分析結果(表 1.)からみると、現代の光学ガラスのほとんどに含まれているB2O3(三酸化ホウ素)が、いずれのレンズからも検出されなかった。ということはこのレンズは現代の光学ガラスではない可能性を強く示唆している。分析結果を表 1.に示す(蛍光X線装置・SHIMMADZU XRF-1500.SHIMADZU Co.Ltd によって分析した)。これは得られたデーターをファンダメンタル・パラメーター法で解析して求められた分析結果である(1%以下の微量成分については省略してある)。
 そこで京大の富田氏がこのデーターを現代の光学ガラスデーターブックにあるデーターと詳しく比較した結果、組成の一致するガラスは存在しないことが判った。ではどのようなガラスに近いものか?ということで資料の一番揃っている富田氏が、歴史的なガラスも含めたデーターを集め、一番近い組成を持ったガラスを国友望遠鏡のレンズの分析結果と一緒にプロットしたのが図1.である。

 図1 眼レンズ(a)と視野レンズ(b)の組成の比較

 図1.から眼レンズは比較用に分析を行ったプレパラートガラスに近いことが判る。これはごく普通の板ガラス(ソーダ・ライム・ガラス)に近い組成である。一方視野レンズの方は、光学ガラスを最初に開発したギナン(スイス)のクラウンガラス(1805年頃から製造販売した)とほぼ一致する。松田氏によるとギナンのクラウンガラスはボヘミアガラス系の硬質ガラスで別名、旧ガラスと呼ばれる物とのことである。

 分政12年(1829年)幕府与力の花井一好は、すべて国内の原料を用いてガラスを製造するための技法書(玻瑠璃精工全書)6篇を表わし、江戸、大阪、長崎、薩摩などにおいてガラス製造業が発展していった。その結果、国産でも無色透明のクリスタルガラスも生産可能となった。江戸時代の国産ガラスの文献「びいどろ、ぎやまん図譜」によると、国産の高級ギヤマンは低温度で溶解し無色、透明にするために金属鉛(PbO)を成分比50%くらい添加しているとある。このことは時代考証をおこなう上で重要なことである。と言うのは成分分析の結果、一貫斎の望遠鏡に使われたレンズからはPbOが検出されていないので、国産のガラスを使用した可能性は非常にすくなく、オランダ経由で輸入された、ギナンのガラスを素材として用いたのではないか?と言うのが我々のほぼ一致した考え方である。一貫斎の頃には、かなりの量の眼鏡用レンズは生産されていたようであり、少なくとも、一貫斎自身が研磨したレンズが存在することは確かであろうと考えられる。製作日誌に研磨材や研磨法について非常に詳しく記載していることがそれを裏付けている。
 まとめると、我々の分光透過率測定および、レンズの組成分析の結果から、国友望遠鏡に使われているレンズは従来から言われていたような水晶でないことが判った。

 上田市博所蔵の望遠鏡に付属していた接眼レンズの構造図、および取扱説明に依ればレンズは3枚構成のはずであるが、実際には2枚であった。一応ハイゲンス式の構成となっているが、レンズの組み合わせは独特のものである。レンズ自体も、視野レンズは縁の仕上げがペンチか何かで掻きとったようであまり奇麗とは言えない。それに比べて眼レンズの方は、その径から考えると手作りとは考えられないほど真円に近くて、きちんと面取りがしてあり滑らかである。また一貫斎の生家に保存されている望遠鏡製作のための部品等が収められた箱には、渡辺が十数年前に見せていただいた折りには確かに水晶の破片が沢山残っていた。すると、少なくとも当初は水晶でレンズを製作することを考えたのか?これらの事情を考えあわせると、一貫斎自身、あるいは後世の人が何らかの理由でガラスレンズに交換したのかもしれない。しかし諏訪の高島藩に献上されて以来、そのような技量を持った人がいたのかどうか?そのあたりを証明できる文献は現在までに発見されていない。

表2 金属鏡の元素定量分析結果(原子数%)

反射鏡の組成分析の結果については、前号で若干ふれておいた。表2.は化合物推定の便宜上、at%で表示しているが、Snの分析値の巾は21.43〜26.36at%である。これをwt%に換算するとSn33.75〜40.07wt%となり、Sn含有率の非常に高い青銅(Cu-Sn合金)であることがわかる。昔の日本ではCu15%以上の高Sn青銅は、その色から白銅とか、佐波理(さはり)と呼ばれていたといわれるが、現在では白銅はCu-Ni合金のことを指すので注意を要する。江戸時代の和鏡はSn15〜30wt%のCu-Sn合金であり、アマルガム法によるSn鍍金を施されることが多かったと言われているが、この鍍金したものは確かに曇りやすく、もしかするとこのあたりが金属鏡は曇りやすいと言う話しを生んできたのかもしれない。日本の青銅鏡を調査してみると、概略以上の様な状況であったらしいが、中国の漢鏡でもSn15〜30wt%のCu-Sn合金である。ヨーロッパでは18世紀頃から、(speculum metal、鏡銅)が反射望遠鏡や回折格子に用いられていたようであるが、現在はそれらの用途からは姿を消している。このSpeculumはSnを30〜35wt%含むCuーSn合金である。

表2 金属鏡の元素定量分析結果(原子数%))

 いずれにせよ、これら中国・西欧の鏡合金としての青銅は15〜35wt%のCu-Sn合金であり、国友一貫斎の反射鏡に見られるSn40.07wt%という分析値は、世界的にもほとんど例の無い高Sn青銅であることがわかる。しかしながらこの高Sn青銅はその特性として非常に脆く、鋳造時における温度制御に失敗すると、鏡材内では冷却速度の差が生じて熱応力によって亀裂や、型枠を外す際に破壊されてしまうという、取扱の非常に難しい合金であるといわれている。ちなみに一貫斎はこの鏡材の開発に実験を含めると3年近い時間を要し(1832年〜1835年)、最終的にCu62.3%、Sn37.7%の合金に落ちついている。

 一貫斎はその手記の中で100年曇らない鏡を作ると明言している。Snの含有率を上げれば腐食しにくいことを経験的に知っていて、取り扱える限界までSn含有率を上げていったのかもしれない。上田市博に保存されている望遠鏡の主鏡も顕微鏡で観察すると微細な亀裂を確認することができる。
                     (つづく)


  26号の目次/あすてろいどHP